顧 ・ 建 築 |
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起稿する毎に、次稿には、しっかりした文を載せよう載せようと、思いつつも、どこかのパンフレットなどから、建物の紹介文に、メリハリを付け、自作の文のような顔で、寄稿する。古建築に心を寄せる者としては、好ましいことではないことは知りつつ……。今回もまたそうである。 |
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瑞泉閣 |
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瑞泉閣洋館部 | |
さて、この連物は、大正天皇の春宮時代、室蘭製作所を行啓されるということで、明治43年8月上旬着手され、同年9月下旬上棟式、同年12月下旬竣工、明治44年8月、内部装飾、外部庭園その他一切竣工。同年9月5日行啓。洋館部を御宿泊所に充てられる。9月6日、当社会長山内男爵他数名御陪食仰付けられる。男爵は、当御来館は、恰も天、沢泉と相対し、殿下御駐泊の光栄の礼を述べ、旅館御命名を言上。 |
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玄関−洋館部に和風起り破風 | |
以後、瑞泉閣は、各宮殿下室蘭台臨時の宿泊所、休憩所として使われ、昭和11年、今上陛下北海道行啓に際しても、御駐輦所として使用された。 |
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瑞泉閣扁額 | |
日本館部分 この建物の玄関は、日本館部分にある。起り破風のある車寄は、柱芯で2間×2間。床には、中国産花崗岩を4半石形に敷いてある。 玄関の敷台は3段になり、床は桧及び桂板、腰羽目は、腰長押を付け、桧板を張る。玄関と、玄関広間の仕切は、2間を建具4枚建てにし、中2枚は引分紙張腰障子、両脇2枚は框舞良子黒漆塗で杉柾板張りの舞良戸である。 玄関広間は、10帖間で、内法長押を付け、天井は、杉板張り。正面には、伊藤博文の額を載げており、左に折れ次の間に入いる |
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床の間 | |
。ここには、東郷平八郎の額があり、なお進むと、洋館部の廊下になる。右手に和室が並び、左手には、見事な日本庭園が拡がる。2間続きの和室で、付書院付床の間が、「上座敷」その隣が、「次の間」である。12帖半の上座敷の天井は、1尺2寸巾の杉柾である。内法長押天井長押が付く。 |
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縁側 | |
10帖の次の間の境襖は、15尺4枚建てとし、上等の葛布張りで、欄間は四方柾艶消漆塗の桧材で組子としたオサ欄間、又、和室は、次の間にみるように、上座敷に準じた仕上げとしている。 浴室については、壁はレンガ、セメントモルタルとし、腰は高3尺の杉板羽目張りにし、その上部は白漆喰塗仕上げ、床はコンクリートでモルタル仕上げ、その上に木製の簀子を置く。天井は格縁天井とし、中央の空気抜きは桧で網代組としている。浴槽は南部桧づくり。面白いことに、給湯はボイラーでおこなわれる。室蘭で−番早いであろうといわれている。近藤某氏が考案したもので、銅製である。浴室外にあり、古い表現であるが、数分間 |
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洋間 | |
で、30立方尺の冷水を熱湯とするとある。カラソは、ニッケルメッキの自在カラソ。 |
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暖炉と鏡 | |
のと、4室の外側に廊下と、二つの廊下がある。洋館外部は薄鼠色漆喰仕上とし、内部は白色漆喰仕上げである。小屋組は洋小屋組で、本州松材を使用。足掛は、和歌山県那智から取り寄せたスレートを、鱗張りに葺き、矩匂配に3本の煙突がたつ、切妻屋根であり、中央に避雷針がたつ。 出入口、窓の開口部は、ルネッサンス様式にまとめ、内部腰羽目は、額縁を付けた桧製のバネルとし、腰上は日本製金泥置花模様型紙張りで仕上げる。蟻壁は白漆喰塗とし、天井はオーストラリア産のスチールシーリングを白艶消ペンキ塗で仕上げている。3室の間仕切りは桧製折戸で、必要ある時は、一方に折込んで |
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洋間 | |
3室共開け通し、一室とすることができるという。奥の間以外の3室にはストープが付き、その前飾りは、茨城産大理石で、灰留石は仙台産スレートの厚坂、火床蓋は高3尺、巾2尺5寸の絹張り縫取り模様の衝立を廻してある。奥の間の御寝室は、バストイレ付きである。便所は、便器・手洗器共外国製品で、床の模様付タイルもまた外国製であるとか、大便器は洋風としたが、明治44年の行啓の折には、殿下の使用しやすいよう、臨時に絵材で改造したという。浴室は、床・腰羽目共外国製タイルを張り付け、浴槽も外国製で内部瀬戸引の鋳鉄製、カランは日本館同様ニッケルメッキの自在カラン。 | ![]() |
シャンデリア | |
窓は全て、上げ下げガラス窓で、外部に防虫用として、上等紗張りの枠を嵌め込みにしている。内部は、間仕切の折戸1カ所と同様、桜製で彫刻付ラッカー塗仕上げの枠を取付けている。 庭園についてみれば |