顧  建  築
 今年の、〃いしずえ”は、年1回の発行と、いうことで、ずいぶんと楽に、原稿が書けると思いきや、例によって例の如し、先日、と言っても、もう大分前であるが、浜益へ行って来ました。そう言えば、昭和56年に、編集委員の人達と来たことがあったなあと思いつつ、新しくなった送毛のトンネルを越え千代志別まで足を伸し、少し休んでまた戻って浜益郷土資料館へ。 天気の良い日、石狩の街を越えてのこの道は、前に書いたことがあるが、いつ来ても良い道である。青く、ずうっと続く海が拡がり、そのまたずっと向うで、空と海が、くっついているようで、海辺の街で育った私には、心地良い。誰かが言った。「日本では母は海にあり、フランスでは海が母である」とかの詩の一節を思い出す。一寸キザかな?
  浜益村郷土資料館
 この建物を、最初に見たのは、もう15年近く前のことである。窓に板が打ち付けられ、荒廃していたのを、記憶している。
 この建物もまた、前に書いた濃昼の建物同様、鰊番屋であり、鰊御殿の一つであった。復元されている今の建物から、旺時、漁場の設備の良さと伴わせて、浜益随一と言われたことが偲ばれる。
 浜益市街から、群別市街へ向かう途中、山道にかかる所を、海側へ少しく行くと、この建物がある。
 切妻屋根に、大きな入母屋のソラマドがのり、起り破風の玄関、向って右手の座敷部分の出窓等の和風要素と、左手漁夫溜部分の洋風要素が、違和感なく感じられる。

 ここは、安政3年(1856)に創設された、主白鳥漁場であり、この建物は、明治32年白鳥浅吉が建てたものであり、棟梁は小林某、建設費は、当時で1,700円といわれ、建坪は約

               浜から見上げる資料館
                間口いっぱいの「床」
120坪余である。戦後、無人の番屋であったが、昭和46年、浜益村開村百年記念事業として復元、郷土資料館としたものである。
 館内には、鰊漁の資料ばかりでなく、浜益村の歴史、また、当然のことながら、白鳥家使用の家財家具も、その寄贈によって展示している。旺時の鰊漁業経営者の生活を、垣間見ることができる。
 ここで、白鳥場所について、少しふり返ってみよう。
 漁場の創設者は、白鳥栄作(又は、永作)という人物で、この人は、〃北海道漁業誌稿〃によれば、

羽後国(現山形県)飽海郡酒田内匠町、本間久平の長男で、安政
2年、松前に来て、安政3年(1856)厚田に、同年6月に浜益に来て、金吉屋の出張所として、漁場を開き、漁業を始めた。その後、元治元年(1864)余市場所請負人、林長左衛門に寄寓、その祝津出張漁場支配人となった云々、とある。 ここで、お気付きの方もあるかと思われるが、上の文中、〃林長左衝門”とは、以前、いしずえに載せた、下余市運上家の場所請負人であり、また、祝津へ行った白鳥栄作は、今でも祝津にある白鳥家である。 話を本筋に戻そう。
白鳥栄作が、祝津へ行った後の場所は、甥の白鳥浅吉が引き受け、漁場の経営をした。
 慶応2年、荘内藩の場所であったハママシケ(現浜益村)場所は、藩が直営することになった。この時、場所請負人であった運上家中川屋が、代官に引き継いだ漁業経営者への貸付物資の調書一運上家入用浜方注文貸付書上−が遺っている。この文書の中に、テキサマ(適沢)浅吉の名がある.つまり、浅吉はこの時点ではすでに、適沢で漁業をしていたのである。栄作から、正式に漁場を譲り受けたのは、元治元年であるが、明治に入ってからの漁業権者は、いぜんとして、栄作である。譲り受けの代金完納までは、栄作の名義であったという。明治4年には、開拓使から、漁場の貸付を受け、漁場を2カ統に拡張し、明治32年には、番屋を新築した。これが今の建物である。
資料館見取り図 白鳥番屋平面図
明治391016日に、息子源作名義で登記をしている。ちなみに、当時、1カ統には、23人のヤン衆(出稼漁師)がいて、鰊の漁獲高は、300600石あったという。
 浅吉の後を継いだ白鳥源作は、大正8年、蒸気機関巻揚機を漁場に導入し ウインチによる鰊沖揚方法に改善をし、建物も10数棟に達したといわれ、番屋の豪壮さと設備の良さで、浜益一といわれたという。
 しかし、大正末期の経済恐慌に伴い、漁場経営も赤字続きとなり、昭和7年、合同漁業株式会社が設立されると、当家も会社に加わり、安政以来の漁家白鳥家も、鰊漁業に終止符を打ち、番屋を離れた。また、白鳥源作は、漁業経営者としてばかりでなく、明治43年、大正2年、同5年、同11年、同14年、昭和7年の6期村会義員をも務めている。
 建物は、昭和821日、合同漁業株式会社に移転登記された。この会社が、戦後、解散すると、報国水産、熊谷常三郎の両経営者によって、分割使用された。昭和2695日、建物は、熊谷常三郎の娘である、上村貞子に、移転登記された.昭和30年代初めからの鰊漁が、成り立たなくなると、無人の番屋となり、荒れるにまかせてあった。
参考図書
      浜益村史
      建造物緊急調査報告書
      浜益村郷土資料館案内書
往時の白鳥漁場